2016年6月27日月曜日

W.BrueggemannのPraying the Psalms(2007)の感想

Brueggemann, W. (2007). Praying the Psalms: Engaging Scripture and the Life of the Spirit. Wipf and Stock Publishers.

米国の旧約聖書学者W.BrueggemannのPraying the Psalmsを読んだ。私が読んだのは英語版の第二版だが、最近『詩篇を祈る』というタイトルで日本キリスト教団出版局より邦訳も出たらしい。

学術書ではなく、一般信徒のために書かれている。一応、前書きでHermann Gunkel、Sigmund Mowinckelのような聖書学者の業績にも言及はされているが、それらはあくまで「前提」であり、考察の対象ではない。本書はより深い知識と情熱をもって一般の読者が詩篇にのぞむことを補助するためのみに執筆されている(pp.ix-x)。

冒頭で、詩篇とは神が私たちに呼びかける声というよりは、歴史的に蓄積し、現代にも権威をもつ「我々共通の人間性」(our own common humanity)の声であることが宣言される。

The Psalms, with a few exceptions, are not the voice of God addressing us. They are rather the voice of our own humanity–gathered over a long period of time, but a voice that continues to have amazing authenticity and contemporaneity. It speaks about life the way it really is, for in those deeply human dimensions the same issues and possibilities persist. (pp.1-2)

ブルッゲマンは詩篇の理解を深めるために人間の信仰生活の状況を以下の三つに分類する(p.2)。

(a)安定的に方向づけられている状態(being securely oriented)
(b)不安的で混乱している状態(being insecurely disoriented)
(c)驚いたことに再び方向づけられている状態(being surprisingly reoriented)

訳が下手で申し訳ないが、ブルッゲマンは(a)のような状態の時には偉大な祈りや賛美は生まれないと述べる。そして、詩篇のほとんどの箇所に(a)は登場しないとも述べている。詩篇と関連するのは(b)と(c)の状態である。(ちなみに、ブルッゲマンは(a)の代表例として箴言をあげている。)

本書では上記を前提に、詩篇の「言葉」の特殊性と「ユダヤ教」との関係から議論が進められていく。印象に残った点を3点記載しておく。

(1)詩篇の「言語」

ブルッゲマンにとって現代世界で用いられている言語には二つの種類がある。最初にあげられるのは「実証主義的な言語」(positivistic language)で、典型的には自然科学や社会科学で用いられる。実証主義的な言語は、現実を記述し、管理をすることができる言語である。もう一方の言語は「大胆で、象徴的な言語」(bold, symblic use of language)であり、典型的には創世記の神の天地創造の言葉として用いられている。この種の言語は、現状にはないものを創りだし、そのことによって希望を産む。詩篇に使われているのは後者の「大胆で、象徴的な言語」である。その上で、ブルッゲマンは詩篇を「実証主義的な言語」として捉える方向性に警鐘を鳴らしている。

私は「詩篇」を実証主義的に読むことを主張する方とは出会ったことはないのでブルッゲマンの強い危惧は共有できないが、広い意味での実証主義的な読み方は教会や個々人の生活に浸透しているのではないかもしれない、と思った。

(2)詩篇と「ユダヤ教」

ブルッゲマンは詩篇をユダヤ教やユダヤ教徒と強く関連づける祈り方をすすめている。ブルッゲマンが批判しているのは詩篇にある「呪い」や「復讐」のような一見「キリスト教」的ではないと思われる部分を軽視するような聖書の読み方である。

上記と関連して、ブルッゲマンは「詩篇」を「イエス・キリスト」を証する書とする読み方の行き過ぎにも警鐘をならす(ただし、完全に否定しているわけではない)。

Again, a long-standing practice (going back to very early Christian interpretation) is to treat the Psalms as claims about Jesus Christ... It is not easy to know how to assess such a practice... I suggest such “ spiritualizing” tends to tone the Psalms down and avoid the abrasive and offensive elements. On balance, I believe it more helpful to avoid such practice.We will be helped to a more genuine piety and an authentic faith if we engage the Psalms as poetry about our common, particular, humanness.(p.45)

このような主張は少し意外だった。ブルッゲマンにとっては詩篇はあくまで人間の、ありのままの姿での神への叫びであり、何らかの理論的なフレームワーク(例えば「キリスト論」)に当てはめようとすることで、詩篇の祈りのリアリティが失われてしまうということなのであろう。

(3)詩篇と「復讐」(Vengeance)

詩篇に登場する敵への復讐を切望する箇所をどう理解するかに関してブルッゲマンは一章を割いている。すでに述べてきたようにブルッゲマンにとって、復讐を切望するような詩篇の箇所は軽視・無視してよいものではなく、詩篇の一部として詩篇の他の箇所と同じような重要性をもっている。

ブルッゲマンによると、復讐は「我々共通の人間性」の一部であり、詩篇に入っていて当然のものである。ただ、ブルッゲマンが強調するのは詩篇(やその他の聖書)では復讐は神がなすことであることが明示されていること、復讐は神のあわれみ(Compassion)と同時に理解されねばならないこと、復讐とあわれみは神の正義の問題と関わること、復讐をめぐる問題はイエス・キリストを通して十字架上で解決されたこと、であった。

詩篇の「復讐」の箇所をめぐっては私もいろいろと考えたことがあるが、ブルッゲマンのように詩篇を徹底的に「我々共通の人間性」の叫びと考えるとわかりやすく受け入れられるように思われた。

本書で少し残念だったのはタイトルがPraying the Psalmsであるにもかかわらず、ブルッゲマンのPsalmについての本書での解説がいかにPrayingにつながるかがあまり議論されていなかったことだ。もちろん、Psalmのテクスト自体が「祈り」であるということなのであろうが、もう少しPrayingの意味を深めてくれたら親切であった気がした。

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