英米圏では比較的昔から名が知れていた学者だったようだが、日本では2010年代からいわゆる「福音派」の神学関係者の間で注目を集め、翻訳・勉強会等が開催されているようである。New Perspectives on Paulというパウロ研究への新しいアプローチと関係があるようであるが、門外漢の私はよくわからない。
Simply Jesus(2011)は一世紀イスラエルの歴史的背景や、当時のユダヤ教の旧約聖書に対する主流派見解をしっかりと説明した上で、イエス像の再現を試みる「史的イエス」論。この手の本はリベラルなものから保守的なものまで数冊読んだが、イエス自身の「内面」に肉薄しようとしていることが本書の一つの特徴だと思われる。
ライトも認めているようにタイトルと違って内容は決してSimpleとは言えないが、一般読者向けに書かれた本としてはかなり詳細な歴史的コンテキストを踏まえており、とても楽しく読み進めることができた。(専門家向けの本は別にある)。イエスの前後の時代にイスラエルに現れた四人の指導者(ユダ・マカベウス、ヘロデ大王、バル・コクバ、シモン・バル・ギオラ)のイエスとの相違点や、イザヤ書・ダニエル書・ゼカリヤ書の重要な預言など、知識整理にも役立つ。
以下印象に残った論点とコメントを3点(1. イエスの「召命」と「神殿」理解、2. 「神の王国」と「地上の王国」、3. イスラエル人の政治・聖書に関する知識・理解)羅列する。
1. イエスの「召命」と「神殿」理解
ライトはSimply Jesus(2011)の少し前に出版されたSimply Christian(2006)で「保守派」から反発を受けそうな以下のような見解を示していた。
At this point, again, many Christians have taken a wrong turn. They have spoken of Jesus as being 'aware', during his lifetime, of his 'divinity', in some sense which made him instantly, almost casually, the possessor of such knowledge about himself as would have made events like his agony in the garden quite inexplicable.What I have argued elsewhere, not to diminish the full incarnation of Jesus but to explore its deepest dimension, is that Jesus was aware of a call, a vocation, to do and be what, according to the scriptures, only Israel's God gets to do and be (Wright 2006:p.101).
Simply Jesusでは上記のような表現は出てこないが、イエスの「神殿」理解に関するライトの記述はSimply Christianでの見解のマイルドな言い換えのように思われた。ライトはSimply Jesusでイエスの「召命」とイエスの「神殿」理解を密接に結びつけている。1世紀イスラエルにおいて「神殿」は「地上」と「天」(神)が出会う場所であり、イエスはこの「神殿」として自己を理解し、このことが「受肉」の教理そのものの中心的意味として捉えられている。
It [The temple] was the place where heaven and earth met... Jesus was, as it were, a walking Temple. A living, breathing place-where-Israel’s-God-was-living. As many people will see at once, this is the very heart of what later theologians would call the doctrine of the incarnation.But it looks quite different from how many people imagine that doctrine to work (Wright 2011: pp.130-131).
もちろん、ヨハネ福音書2章を筆頭に新約聖書ではイエスの「身体」を「神殿」と結びつける解釈が登場しているので、ここでのライトの解釈は伝統的なものであるとも言える。ただ上記引用でライト自身も指摘している通り、現代を生きる多くの一般信徒の「受肉」理解はこのようなものとは少し異なるように思われ、違和感を覚える人もいるかもしれない。
2. 「神の王国」と「地上の王国」
ライトは「神の王国」(「神の国」、「天の御国」、「天」と基本的には同じ意味)をこの地上の世界から離れた、死後に人間が行く遠くにあるもののように考えるクリスチャンを批判する。そのような考え方は1世紀のイスラエルには存在しなく、プラトン主義の影響を受けた思想だという。
Many have wrongly assumed that he[Jesus] was referring to a 'kingdom' in the sense of a place called 'heaven'-in other words, a heavenly realm to which a people might aspire to go once their time on 'earth' was over. That is simply not the phrase meant in the first century...Within Jesus' world, the word 'heaven' could be a reverent way of saying 'God' ; and in any case, part of the point of 'heaven' is that it wasn't detached, wasn't a long way off, but was always the place from which 'earth' was to be run(Wright 2011: pp.142-143).
ライトは「地上の王国」と対置する形で、イエスが地上で「神の王国」の開始を宣言したと考える。この王国は弟子達が期待したような暴力革命によるものではなかったが、実際に現存するものであり、イエスの「十字架」とともにすでに到来しており、一定の政治的な意味をもっている。にも関わらず、現代を生きるクリスチャンは「十字架」を抽象的に捉え、すでに到来している「神の王国」を自覚していないことをライトは批判している。一世紀の弟子たちがイエスに「地上の王国」(e.g.ローマ帝国)を倒すような「王国」を期待し「十字架」は期待しないという過ちを犯したのと正反対に、現代の多くのクリスチャンは「十字架」のみを期待し「王国」を期待しないという過ちを犯した。ライトにとって「十字架」と「王国」は切り離せないものなのだ。
The disciples wanted a kingdom without a cross. Many would-be ‘orthodox’ or ‘conservative’ Christians in our world have wanted a cross without a kingdom, an abstract ‘atonement’ that would have nothing to do with this world except to provide the means of escaping it (Wright 2011:p.169).
「神の王国」を証する役割が与えられているクリスチャンにとっての一番の政治的表現は「礼拝」である。そして、ライトによれば、「礼拝」は本来的にはどのような地上の政治組織(民主主義国家も含まれる)にも挑戦的であるはずのものだ。
Acclaiming Jesus as Lord plants a flag that supersedes the flags of the nations, however 'free' or 'democratic' they may be. It challenges both the tyrants who think they are, in effect, divine and the 'secular democracies' that have effectively become, if not divine, at least ecclesial, that is communities that are trying to do and be what the church was supposed to do and be, without resource to the one who sustains the church's life.Worship creates-or should create, if is is allowed to be truly itself- a community that marches to a different beat, that keeps in step with a different lord(Wright 2011:p.215).
このような見解は保守的なキリスト教の文脈では珍しいものではないかもしれないが、ライトが特定の国家(大英帝国)と密接な関係を保ってきた英国国教会のナンバー4であるダラム司教を7年間つとめた人物であること、ダラム司教はThe Lord Spirituralとして英国議会の貴族院の議員に任命されることを考えると示唆に富んでいる。
ライトに限った話ではないが、聖書学者が、「当時のイスラエルの人々が共有していた物語(世界観)は〇〇である」という主張に基づいて何かを論ずる場合に気になるのが、実際にその物語が社会にどの程度浸透していたかという問題だ。
私が社会意識調査のデータ分析をしているから思うことなのしれないが、特定社会で共有されている価値や知識等にもほとんどの場合一定の分散(意見の散らばり)が存在しており、その分散は社会的属性(e.g.ジェンダー、職業)やその他の要因(e.g.居住地域)に大きな影響を受ける。多くの聖書学者は当時のイスラエルの民のほとんどが旧約聖書やその解釈に精通しているように描いているが、どこまでそのような古代イスラエル像は正しいのだろうか。
もちろん、イエスやイエスを批判した宗教熱心な者たちが特定の物語の中に生きていることは簡単に想像できる。だが、例えばイエスが語りかけた貧しい群衆はどうだったのであろうか。彼らはそもそも彼らの置かれている政治的状況(ローマ帝国)を正しく把握したり、旧約聖書の特定の箇所を心に刻み、それに基づく預言の成就を待ち望んだりしていたのであろうか。このような批判は資料が少なすぎて検証する方法はないし、あまり生産的ではないことは理解しつつ、時折感じてしまうことである。もちろん、この本の主旨には大きな影響は与えていない。
コメントは以上。大変有益な本であったので、英語がOKな方は是非手に取ることをお勧めしたい。
引用文献
Wright, N. T. (2006). Simply Christian: Why Christianity Makes Sense. SPCK.
Wright, N. T. (2011). Simply Jesus: Why he was, what he did, why it matters. SPCK.
めっちゃええやん。
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