とあることがきっかけでカルヴァンの「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 」(マタイによる福音書6章12節『新共同訳聖書』)の解説を調べた。以下、そこに書いてあったことをメモとして感想付きでまとめてみた。
ジュネーブ大学図書館にある カルヴァンの肖像画(wikipediaより) |
45節の前半部分はなぜキリストが「負い目」という言葉を「罪」を指すのに用いたかについて述べてある。
さてキリストは罪のことを負い目と呼びたもうが、これは、われわれがその罪の刑罰を「負う」からである。もし、これが「赦し」によって免除されるのでなければ、われわれはこの負い目をあがなうことができなかった。これは値なしの憐れみによる赦しであって、神はわれわれから何らの値を受けることなく、進んでこの負い目を抹消したもうた。(『キリスト教綱要』第3篇第20章45節)
広く普及している「主の祈り」の日本語訳の多くは「我らに罪をおかすものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」となっているが、「負い目」という言葉の方が「負債」の意味がよりはっきりしてきてよいのかもしれないと考えさせられた(注2)。
続けてカルヴァンは当時の再洗礼派・聖霊派等を批判している。当時の宗教改革急進派がどのような主張をなしていたのかわからないのでここは私にはいまいち理解できなかった。
後半部分。カルヴァンは「我らが赦すごとく」というフレーズに敏感に反応し、人には負い目を赦すことはできない(負い目を赦すことは神にしかできない)大原則を再確認している。
最後に、われわれは、「われらに負い目あるものをわれらが赦すごとく」—換言すれば、行為において不正に取り扱われるにせよ、あるいは、ことばをもって侮辱を浴びせられるにせよ、何らかのことでわれわれに害を与えるすべての人々を、われわれが惜しんで赦しを与えるように、ということである—この赦しがわれわれに対してなされることを祈り求める。これは、違反や犯行の罪責を赦すことがわれわれの権限にあるということではない。それは、ただ、神のみに属する(イザヤ43:25)。ただ、われわれに属する赦しとは、怒りと、憎しみと、復讐欲を心のうちから取りのぞき、害を受けた記憶を、進んで忘れることによってなくすことである。(下線筆者)(『キリスト教綱要』第3篇第20章45節)
カルヴァンにとって「主の祈り」で求められている「赦し」とは「怒り」「憎しみ」「復讐欲」を取り除き、「害を受けた記憶」を「進んで忘れる」ということである。ここで前半部分の「負債」のニュアンスを思い起こすと、人の負債は人が帳消しにできるものではないということをカルヴァンは主張していることになる。つまり、人の負債は人に対して負っているようにみえても実は神に対して負っており、人は負債のことを「忘れること」はできるが、「返済すること」はできないという意味なのであろう。(注3)
人間に罪を赦す権限がないというのはユダヤ-キリスト教伝統の中では大前提だと思われるが、「主の祈り」の「赦し」の文脈でそのことを思い出す人は多くはいない気がする。少なくとも、私は思い起こしたことがなかった。また、ここでのカルヴァンの「赦すこと」と「忘れること」を結びつける論点は奥が深い。(注4)
カルヴァンは続けて、「われらに負い目あるものをわれらが赦す」ことは、「われらの負い目」が赦されることの根拠ではないことを強調する。
「われわれがわれわれに負い目あるものを赦すように、われわれも赦される」との条件は、「われわれが他の人に施す赦しのゆえに、われわれも神からの赦しに値するものとなる」という意味のものとして、—あたかも、赦しの根拠をしるすためのもののように—付け加えられたのではない。(『キリスト教綱要』第3篇第20章45節)
カルヴァンにとって、キリスト者が「負い目」を赦すことは、わたしたちに与えられた「しるし」である。
すなわち、主はこれをいわば「しるし」として—われわれが、「他の人々に対して自分はこれを行った」と確かに意識されるのと同じだけ確かに、「われわれにも神からの罪の赦しが与えられた」ということを確信する「しるし」として—付け加えたもうた。(『キリスト教綱要』第3篇第20章45節)
この「しるし」としての「赦し」は『プロ倫』におけるヴェーバーの「予定説」解釈を彷彿させる論理構造だ。カルヴァンはこの「しるし」を、神がわたしたちの「負い目」を赦す恵みと並列される「第二の恵み」と表現している。
ふと調べてメモ程度に考えたことを書いてきたが、こんなにも長くなってしまった。かなり尻切れとんぼな記事だが、ここで終わりとする。『キリスト教綱要』を読むのはこれがはじめてなのだが、意外と面白かった。もし最後まで読んでくれた方がいたら、是非気になる箇所を読んでみることをおすすめする。
(注1)J . カルヴァン,『キリスト教綱要Ⅲ/2』(渡辺信夫訳)新教出版社 (1964)
(注2)現在普及している日本語の「主の祈り」のほとんどが「罪」という表現を使っているのは、マタイ福音書(「負い目」)ではなくルカ福音書(「罪」)の記述を採用したということなのか、マタイ福音書の「負い目」をよりわかりやすいように「罪」と意訳したということなのか、真相は私にはよくわからない。
(注3)ここで私が勝手に思い出したのが詩編51篇6節である。ダビデはバテシェバ事件のことをナタンに非難された後、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し・・・」と神に祈っている。妻を奪った上で、間接的に殺害した部下のウリヤに対する言及はない。
(注4)カルヴァンのここでの主張からは大きくは離れるが、私が気になったのは主の祈りを「共同体」の祈りとして理解した時に「赦すこと」を「忘れること」と理解することの問題点である。例えば戦争の被害を被った共同体は返済を求めない場合でも被害を共同体として「記憶」する(e.g.中韓の「歴史教科書」や「原爆ドーム」)。こうした「記憶」でさえもキリスト者であれば「忘れる」ことが求められているのであろうか。それともカルヴァンの「忘れる」はまた別の意味なのであろうか。カルヴァンは宗教改革の迫害の被害者でもあった。カルヴァンは自分や自分の愛する共同体が被った被害を「忘れること」ができたのであろうか。
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