「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(ルカの福音書の9章60節)で有名な下記の新約聖書における記述は、父母を敬うことを掟とするユダヤ教の文脈に照らしても、現代の状況に照らしてもなかなか理解し難いと疑問に思っていた。
09:59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 09:60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 09:61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 09:62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。 (ルカの福音書の9章59節-62節「新共同訳聖書」より)
木曜日、「エリシャの召命」(列王記上の19章19節から21節)のこと(下記)を友達と話していて、疑問に思っていた上記ルカ福音書の箇所を思い出した。
19:19エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。19:20エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。 19:21エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。(列王記上の19章19節-21節「新共同訳聖書」より)
両者は対照的である。エリシャの「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。」という願いは叶えられたのに対し、ルカの福音書の「主よ、まず父を葬りにいかせてください」、「まず、家族にいとまごいにいかせてください」という願いは叶えられない。
どこかの注解書には既に書いてあることだと思うが、ルカ福音書の著者はイエスに従おうとする二人の無名な人物の物語を記述した際に、列王記上のエリシャの召命物語を意識していたはずだ。さらにいえば、イエスもこの召命物語のことを幼い頃から何度も聞いていたはずである。だから、列王記を踏まえればルカの一見厳しすぎるように思える記述を当時の文脈に即して理解できるのではないか(注1)。
鍵はエリヤとイエスの質的な違いにある。エリヤはあくまで神の命令に従ってエリシャを選んだ。エリヤの「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」(列上19:20)という返事は、「神があなたを見いだしたのだ。私が見いだしたのではない。だから私はあなたの行動にとやかく言う権利はない。」という意味にとることができる。一方、イエスにはエリヤにはない権威がある。キリストとしての権威、神の子としての権威だ。だからこそ、イエスはここでエリヤと同じように「私があなたに何をしたというのか」とは言わない。なぜならエリヤはエリシャに「何もしなかった」(召し出していない)が、イエスは無名の人物二人に「何かをした」(直接的に召し出した)からである。
そう考えると、ルカのこの箇所はイエスの権威を表現しようとしている箇所として理解することができるのではなかろうか。ここは、新共同訳聖書では「弟子の覚悟」という小見出しがついているが、「イエスによる選び」という小見出しに変えてもよいのかもしれない。(注2)(注3)
(注1)ルカ福音書の著者は異邦人であるとする説が有力のようだが、旧約聖書に関しても一定の知識があると考えて差し支えはないと筆者は考えている。
(注2)筆者は聖書学・神学的なトレーニングを受けておらず、さらにヘブライ語もギリシャ語も読めない。この記事に聖書学・神学的におかしな部分があれば大目にみていだだけると幸いである。
(注3)この記事は筆者の責任のもとで書かれており、筆者の所属するいかなる団体の見解をも代表しない。
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