2016年6月18日土曜日

同化から差異化そして再び同化へ(Brubaker 2001)

Brubaker, R. (2001). The return of assimilation? Changing perspectives on immigration and its sequels in France, Germany, and the United States. Ethnic and racial studies, 24(4), 531-548.

UCLAの歴史社会学者R.ブルーベイカーの論文。この論文は2001年にEthnic and racial studiesから出されており、「同化」から「差異化」そして再「同化」へという20世紀の移民へのアプローチの大きな変遷をフランス、ドイツ、アメリカの三国を事例に描いた論文。もちろん、前者の「同化」と後者の「同化」の意味は大きく違い、その意味の内容が本論文の論点。

「同化」という言葉の定義。同化には二種類の意味があるという。一方は「一般的で抽象的」(general and abstruct)で、何かが同じようになってくることや、何かを同じようにすることや、何かを同じように扱うこと意味する。この意味での同化は「過程」(process)であり、「程度」(degree)の問題である。もう一方の意味は「具体的で有機的」(specific and organic)であり、身体が食べ物を血に変換するように、何かを変換して自らのシステムのうちに取り込むことを意味する。この意味での同化は「過程」ではなく、「結果」(end-point)であり、「程度」の問題などではない。

ブルーベイカーによれば研究者の視点も含めたパブリックディスコースや政策の面で、西洋諸国を中心に、20世紀初頭から半ばまで強固な「同化」的視点が存在し、それへの反発という形で1960年代後半頃から「差異」を強調する多文化的な視点が優勢となり、さらにまたそれへの反発として「同化」的な視点が1980年代後半から強まっている。しかし、20世紀初頭の「同化」と1980年代以降の「同化」はその意味が根本的に異なっており、前者は「結果」としての完全な「同化」であり、後者は「過程」としてのみの「同化」である。

具体例としてアメリカの歴史学と社会学の研究の変遷があげられている(実際には論文ではフランスのパブリックディスコースとドイツの公共政策もあがっているが割愛)。アメリカでは1920年代-1960年代にかけて「同化主義」的な視点からの研究が盛んであった。こうした研究においては、ゴードンのような有名な学者のものでさえも、移民の「白人」「プロテスタント」の主流文化への直線的な同化を暗黙のうちに前提としていた。これは批判されるべき「結果」としての「同化」である。しかし、こうした「同化」への反発として、1960年代半ば以降、移民のエスニシティを強調する多元主義的な研究が優勢となり、この傾向は1980年代半ば頃まで続いた。こうした研究は移民独自の文化が維持され続けることが善であり、移民は一般的に自分たちの文化を維持するものだという検証されていない仮説の上になりたっていた。しかし、エスニックな組織に着目するあまり、エスニックな組織を退出する移民や、トランスエスニックな人のつながりの形成に着目ことができていなかった。1980年代後半以降にあらわれた新しい潮流は再び「同化」を強調する。しかし、今度は「過程」としての「同化」である。また、「同化」を分析のためにのみ必要な概念とし、規範的な立場をとることに極めて慎重であるととみに、移民の「同化」するグループに、より分節化された(segmented)、多様な集団を仮定する。例外的に規範的な議論をする場合でも、経済・健康面での「同化」を強調する(e.g.移民もアメリカの中産階級と同じくらい経済的に豊かになる/健康になる方がよい)。

以上がブルーベイカーのいう「同化」(20世紀前半)⇒「差異化」(20世紀後半)⇒「再同化」(20世紀末-)の潮流の具体例である。
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以上、私なりに要約した。移民研究に慣れ親しんでいない人には意味がわからないかもしれない。特に、「同化」の二つの定義付けの際に使われる「一般的で抽象的」と「具体的で有機的」の対比の意味は私にもクリアではない。ただ、結論部でもこの対比を再び出してきているのでよっぽど強調したかったのだろうと思う。論文中には書かれていなかったので補足しておくと、現代の研究の潮流ではブルベイカーがいう「過程」という意味での「同化」には「統合」(integration)という言葉がよくあてられる。

日本は1990年代末くらいから「差異」の段階がニューカマーを受け入れた学校や地方公共団体から草の根レベルで到来し、まだ「差異」(多文化主義)の段階にいるという認識が私にはある(ここら辺のことに関しては日本でもたくさん文献があるし、自分も専門ではないので詳しくはない)。だから、日本にこのブルーベイカー論文のような視点が導入されるにはまだまだ時間がかかるであろうし、導入される際には、戦前回帰的な右翼的ディスコースに政治家や研究者が足をとられないように気をつけなければならないとともに、「同化」という言葉に深く傷ついているオールドカマーのコミュニティ(特に在日韓国・朝鮮コミュニティ)への配慮は欠かせないであろう。

ただ、現実として、移民は一定程度ホスト国の生活様式(e.g.言語)を身につける。また多くの移民はホスト国で何らかの仕事にも就くであろうし、子どもは学校にもいくであろう。こうした移民の状態をホスト国の国民の状態と経験的に比べることは(政策的・学問的に)重要であり、ブルーベイカーのいうような過程としての「同化」の概念は(「同化」という言葉は別の言葉に変えてもよい)必要であろう。

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