2016年6月7日火曜日

トルストイ『光あるうち光の中を歩め』の感想

先日、トルストイの『光あるうち光の中を歩め』(新潮文庫)をプレゼントしてくれた方がいた。ロシア文学は高校2年生の時にドストエフスキーの『虐げられた人々』を読んで以来。恥ずかしながら、トルストイに手をつけたのはこれがはじめてである。

プロローグ。舞台はおそらくトルストイの時代のロシア。ストーリーは金持ちの邸に集まった閑人たちの会話からはじまる。キリスト教徒らしい生活を送るために「自分の財産を放棄して、田舎へ行って、貧しいひとびとと一緒に暮ら」(p.7)そうとする青年、青年をたしなめる父親、父親に賛同するようなことをいいつつも青年の主張を後押しし、「妻子のことを思い悩むのをふっつりやめて、ただただ自己の霊のことばかり考え」(p.10)たいと言う妻帯者の中年男、そしてこの中年男に猛反発する彼の妻と婦人たち、中年男を弁護する老人・・・・というような形で会話が続いていき、決着のつかないまま終わる。

本編。冒頭はマタイの福音書21章33節-41節のぶどう園の譬え話が引用されている。舞台は原始キリスト教がまだ非合法な宗教として迫害されていたキリキヤの国タルソに設定されており、時代は紀元100年頃とされている。タルソといえば使徒パウロの生まれた街だ。トルストイの中で関連をさせているのかもしれない。

主な登場人物は大富豪の息子で街で成功をおさめていくことになるユリウス、その親友パンフィリウス、医師、そして最後に出てくる老人である。ユリウスとパンフィリウスは幼少期に一緒に育つが、パンフィリウスがキリスト教徒となって、遠いところにあるキリスト教徒の共同体で共同生活をしはじめる。この時期のキリスト教徒は財産を共有する形の共同生活を送っていた。

ユリウスは一度放蕩するが、結婚して身をかためてからは順調に出世していく。彼は二度(青年期と壮年期)人生の危機に直面し、毎回かつての親友パンフィリウスのことを思い出して、キリスト教徒の共同体へと足を運ぶことを決意する。その度にあらわれてキリスト教徒のところへいくのをやめるように説得するのが医師である。

老年期になったユリウスは三度目の危機に直面し、医師の言葉を聞くのをやめてキリスト教徒の共同体にたどり着く。しかし、豊作の葡萄畑は人で一杯で、ユリウスは働く場所をみつけることができなかった。さらに、少し古く実が少ない葡萄畑でも働く場所を見つけることができず、老樹となってしまった空っぽの葡萄畑にたどり着く。そして一回目の決心の時に来ていれば豊作の葡萄畑で働け、二回目の決心の時に来ていれば古い葡萄畑で働けていたことを悟り、何もとれそうにない葡萄畑でこうつぶやく。

「俺は何の役にも立たない、今となってはもう何一つできない」(p.144)

しかし、そこに老人があらわれ、老樹でも葡萄は探せばみつかることを教えてくれる。そして、神の仕事全体の前では、人間がとる葡萄の多寡は関係なく、すべて大海の一滴に過ぎないことを告げ、ユリウスを安心させる。

「あんたは自分がやって来た以上のことができないと行って悲嘆してなさる。が、嘆きなさるな、お若いの。われわれは一人残らず神の子で、またその神の下僕なのだ。(中略)神の仕事は、神それ自身のように宏大無辺際じゃ。神の仕事はあんたの内部にありますのじゃ。あんたは神のもとへ行って、労働者ではなく、神の息子になりなさい、それであんたは限りない神とその仕事に参加する人間となるだろう。」(pp.146-147)

以上があらすじ。ユリウス、パンフィリウス、医師のやりとりは一人一人が経験する心の中での葛藤を上手く表現していると感じた。特に私には、キリスト教の共同体へ赴かないように説得する医師があげる理由がどれも説得的で、キリスト教徒であったとしても時に心の中に聞こえてくるこの世の賢者の声を代表しているように感じられた。

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