2016年7月24日日曜日

ベルリン社会科学サマースクール(1週目)

フンボルト大学ベルリンの社会科学大学院
7月17日(日)より、7月28日(木)までの予定で、ベルリンにて開催されている社会科学のサマースクール(Berlin Summer School in Social Sciences)に参加している。このサマースクールはフンボルト大学のベルリン社会科学大学院(Berlin Graduate School of Social Sciences)、ベルリン社会科学センター(Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung, 通称WZB)が大学院生のために毎夏合同で開催している。すべてフンボルト大学の大学院生によってオーガナイズされている。

今年のテーマは”Linking Theory and Empirical Research”で、1週目に社会科学の理論と方法に関して異なった立場の教員がレクチャーを繰り返し、皆でディスカッションを行う。2週目はそれぞれの研究テーマごとに4つの分科会に分かれて研究交流を深める。昨日で1週目のプログラムが終了した。私は来週、「移民・市民権・社会格差」分科会に参加予定。

応募は4月にネットを通して行う。履歴、業績、現在行っている研究等をベルリン側に送付し、ベルリン側が選考を行う。一部参加者にはトラベルグラントが支給され、私(東京から参加)の場合、900ユーロ(約10万円)を受け取ることができる。

50名ほどの参加学生の中で東アジアの大学に所属しているのは私だけである。参加者のほとんどがヨーロッパの大学院所属の学生であり、それにアメリカ、カナダ、トルコが数名ずつ加わっている。また、修士(博士課程前期)の学生は私を含めて数人だけで、ほとんどは博士後期課程(ヨーロッパ諸国は日本のように修士と博士が分かれているところがほとんどである)とポスドクの学生。

「社会科学」というと経済学、政治学、社会学を指すことが多いが、サマースクールでは経済学者は一人だけで、学生も教員もほとんどが政治学か社会学を専攻していた(私は教育学研究科に所属しているが、教育社会学を専攻している)。比率は社会学:政治学で6:4くらいである。唯一の経済学者のSanjay Reddy氏はハーバードで数学を専攻した後、ケンブリッジで社会人類学の修士号をとり、その後ハーバードで経済学の博士号をとった異色の経歴の持ち主で、自分のことを"most sociology friendly economist"と言い、経済学が他のディシプリンを見下していることをあまりよく思っていないようであった。日本(東大)で勉強していると政治学>=経済学>社会学という社会科学内のヒエラルキーを感じるが、欧米では経済学>政治学>=社会学だと思われる。これは日本(東大)で政治学科が法学部にあり、法学部が圧倒的に「偉い」こととも関係もすると思う。

以下は1週目の日毎のテーマと講師である。

7月17日(日)ポスター発表会

7月18日(月)講義&演習① Epistemological Foundations of Methodological Paradigms
Sanjay Reddy(The New School for Social Research)
Gilbert Achcar(University of London)

7月19日(火)講義&演習② Causation and Explanation in the Social Sciences
Macartan Humphreys(Columbia University)
Hendrik Wagenaar(University of Sheffield)

7月20日(水)連邦議事堂視察&難民による抵抗運動視察

7月20日(木)講義&演習③ Concepts as Building Blocks of Theories
Vera Troeger (University of Warwick)
Donatella Della Porta (European University Institute)

7月21日(金)講義&演習④ Linking Micro and Macro Perspectives
Bob Jessop (University of Lancaster)
Nina Glick-Schiller (University of Manchester)

7月22日(土)ワークショップ Methodological approaches to studying the global economy - The micro-global approach to financial markets
Karin Knorr Cetina(University of Chicago)
Sanjay Reddy (The New School for Social Research)

私は初日のポスター報告で修士論文(来年1月提出予定)の第2章を発表した。予想以上に好意的に受け止められたので嬉しかった。ただ、ほとんど参加者は私のように研究の一部ではなく、博士論文プロジェクトの概要を発表しており、私も自分の未完成の修士論文の全体像がみえるような発表をすればより良かったのかもしれない。

20日(水)に見学した連邦議会の議事堂(国会議事堂)
講義&演習は社会科学の認識論における「実証主義」と「解釈主義」、方法論における「量」と「質」など異なるとされる立場の先生が米欧からバランスよく招聘されており(もちろんほとんどの先生はより中間的な立場にたっている)、サマースクール中に招聘教員から1対1の指導も受けることができる。

私はどちらかというと量的な手法を用いること多い(発表も計量分析であった)が、質的なアプローチで経験的な研究をしている院生が目立った。これは量的アプローチをとる学生が同時期にアメリカのミシガン大学で行われるICPSRに参加していることの影響かもしれない(もちろんICPSRの方が規模も知名度もある)。

議事堂内の壁へのソ連軍による落書き
観光はあまりできていないが、20日(水)に見学した連邦議会の議事堂とその中の壁の落書き(1945年に議事堂を占拠したソ連軍によるもの)は大変興味深かった。落書きはソ連軍の兵士の名前や出身地が記されており、度を超えて侮蔑的なものは消される一方、多くはそのまま議事堂の壁に保存されている。落書きを残すことには、ドイツの保守系議員の一部から反発の声もあったようだが、忘れてはいけない「歴史」として残すことを決めたらしい(連邦議会公式ガイド談)。私は修士論文の一部としてドイツの帰化テスト(移民が国籍を取得するために受けなければならないテスト)を分析しているが、そこでも第二次世界大戦前後の暗黒時代の歴史に関する質問が目立つ。連邦議事堂の落書きを通して、現在のドイツの国としてのナラティブにナチス時代の負の歴史から目を背けないことがいかに大切にされているかを改めて感じることができた。負の歴史から目を背けようとする動きが目立ってきているどこかの国とは大きく違う気もした。

最後に現地での生活について。現在はフンボルト大学のゲストハウス(住所:Ziegelstrasse 2)に宿泊中。ベルリン社会科学大学院までは徒歩15分程度。キッチン、トイレ、シャワー共有の4人用のアパートの個室なのだが、アパートを使っているだが自分だけなのでかなり豪華なスペースの使い方をしている。12泊13日で455ユーロであった。普段は自炊しているが、器具はフライパン等しかないので、毎日朝と晩は卵を焼き、スーパーで買ったパンとトマトとチーズと一緒に食べる生活をしている。昼は大学の食堂(Mensa)で食べる。

以上、徒然なるままに書いてしまった。誰も最後まで読む人がいないかもしれないが、いつか検索で引っかかってくれる人がいることを願う。今後、日本からもこのサマースクールに参加者が増えるといいと思うので、是非来年以降の応募を考えることをおすすめする。次回以降の投稿ではサマースクール中に課題として出された論文や、明日から始まる「移民・市民権・社会格差分科会」についてまとめたい。

→二週目についてはこちら

2016年7月9日土曜日

綺麗な表の作り方(Stataのoutreg2)

論文に載っているような綺麗な表を出力するためのoutreg2というコマンドがStataにはある。デフォルトの設定はすぐに使えるようになったのだが、必要な各種統計量を表に自動的に追加するオプションの使い方がいまいちわからず本日は無駄な時間を使ってしまった(マニュアルで追加すれば一瞬で終わる)。

今週は時間と戦っているのでこんな非本質的なことに時間を使っている場合ではなかった。ただ、せっかく学んだので備忘録としてメモしておく。

なお、outreg2は以下のコードでインストールする。説明はこのブログを読まなくてもいろいろなところにあるが、例えばここに詳しい。

ssc install outreg2

以下は、y1 x1 x2 x3 x4という変数を用いて、Pooled-OLS推定、固定効果推定、ランダム効果推定をした後に、outreg2で表を出力するコードである。outreg2のデフォルトの出力(係数、標準誤差、R2乗、N)に加えて、各モデルにそれぞれの推定方法の名前をつけ、Between R-Squared、Within R-Squared(注1)、Overall R2-Squared、sigma_u、sigma_eにそれぞれ名前をつけた上で表の最後に追加し、エクセルファイルに出力されるようにしてある。ワードファイルに出力したい場合、.docに変更すれば良い。

コードは以下の通り。少なくともStata14がインストールされている私のmacbookairでは走った。

xtset id time
quietly reg y1 x1 x2 x3 x4
outreg2 using myreg.xls, replace ctitle(Pooled OLS)
quietly xtreg y1 x1 x2 x3 x4 ,fe
outreg2 using myreg.xls, addstat(Within R-squared, e(r2_w), Between R-squared, e(r2_b),Overall R-squared, e(r2_o), sigma_u, e(sigma_u),sigma_e, e(sigma_e)) append ctitle(Fixed Effects)
quietly y1 x1 x2 x3 x4,re
outreg2 using myreg.xls, addstat(Within R-squared, e(r2_w), Between R-squared, e(r2_b),Overall R-squared, e(r2_o), sigma_u, e(sigma_u),sigma_e, e(sigma_e)) append ctitle(Random Effects)

もっとかっこ良い書き方があると思う。私はStata歴2ヶ月強なのでゆるしていただきたい。ただ、一応これでも綺麗な表は出力されるはず。検索でたどり着いた方は試してみてください。なお、Stataに関しては英語で情報がたくさんネットに上がっているので英語で検索されることをおすすめする。

(注1)この場合、固定効果モデルにおけるWithin R2-SquaredとOLS推定のR2-Squaredは一致する。

2016年7月3日日曜日

移民はソーシャルキャピタルを低下させるか?(Kesler and Bloemraad 2012)

Kesler, C., & Bloemraad, I. (2010). Does immigration erode social capital? The conditional effects of immigration-generated diversity on trust, membership, and participation across 19 countries, 1981–2000. Canadian Journal of Political Science, 43(02), 319-347.

Christel KeslerとIrene BloemraadがCanadian Journal of Political Scienceで発表した論文。Irene BloemraadはUCバークレーの教授で、社会学における移民研究、特に米加比較で注目されている研究者。Christel Keslerは若手で、おそらくバークレーでIrene Bloemraadの指導を受けていたのだと思われる。

hunker downしている亀のイメージ
本論文はhunker down仮説を個々の国レベルの状況をしっかりと加味した上で再検証しようという内容。hunker down仮説とはカメが外界を信頼していない時に頭を引っ込めて甲羅に閉じこもるように、移民流入によって多民族的状況が生まれると、ソーシャルキャピタルが低下するという仮説。ソーシャルキャピタルは論者によっていろいろな定義があるが、本論文では(1)社会的信頼(周囲の人への信頼感)、(2)市民団体への参加(教会、ボランティア団体etc.)、(3)政治行動(請願活動、合法的なデモetc.)の三つで計測されうるもの、とゆるく考えておけばよい。hunker down仮説はもともとPutnam(2007)で提唱され、メディアも含めていろいろなところで有名になった。パットナム本人は論文では微妙な言い方をしているのであるが、世に出回っている基本的な理解は以下の図式である。

hunker down仮説:多民族的状況⇨ソーシャルキャピタル低減

KeslerとBloemraadの論点を先取りすると、外国人移民流入(多民族的状況)によるソーシャルキャピタルの低減は経済的格差が大きい国・多文化主義政策が実施されていない国のもとで深刻になる、ということになる。最終的に著者らは、hunker down仮説をそのまま受けいれることはできないと結論づけている。
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以下、論文の細かい要約と私のコメント。KeslerとBloemraadは、hunker down仮説がアメリカのデータから概ね支持されているものの、一部の国(特にヨーロッパ)では支持されていないことに着目して仮説をたてていく。著者らは各国個別の(1)経済的格差と(2)多文化主義政策が、多民族的状況がソーシャルキャピタルを低減する効果を媒介しているのではないかと考え、hunker downを媒介する要因とその方向を明らかにしようとしている。なぜ著者らが経済的格差と多文化主義政策に注目するかについては実際に論文を読まれたい。著者らが検討する仮説は大きく要約すると以下のようにまとめられる。

(1)経済的格差仮説

経済的格差仮説:多民族状況⇨(経済格差)⇨ソーシャルキャピタル低減

経済的格差の拡大は多民族的状況がもたらすソーシャルキャピタルの低減をより深刻にする形でhunker downを媒介するという仮説。逆に、経済的格差が小さいと多民族的状況がもたらすソーシャルキャピタルの低減もより緩やかになるという仮説。

(2)多文化主義政策仮説

多文化主義政策仮説1:多民族状況⇨(多文化主義政策)⇨社会的信頼低減
多文化主義政策仮説2:多民族状況⇨(多文化主義政策)⇨市民団体参加・政治行動増大

多文化主義政策に関しての著者らの見解はソーシャルキャピタルを社会的信頼と市民団体参加・政治行動に分けて考えなければならないためわかりにくくなっているが、要するに多文化主義政策は民族グループを固定することにより社会的信頼の低減をより深刻にするが、逆にエスニック団体も含めた市民団体への参加や政治行動をより増大させる、ということのようである(本文ではここまで明快には述べられていない)。なお、ここでいう多文化主義政策とはカナダに典型的にみられるような国内の民族・移民マイノリティを承認し一定の権利を与えるような政策のことをいう。

論文で使用されるデータはWorld Value Surveyのうち「発展した民主主義国家」(advanced democracies)19カ国で1980年代、1990年代、1990年代半ば、2000年代に各国で行われた調査データファイルを合併している。サンプルサイズは従属変数によるのだが、レベル2(カントリーイヤー)は47-60で、レベル1(個人)は66,573-77,756である。

分析にはマルチレベルロジットモデルが使われている。Bloemraadは質的手法で有名になった研究者だが、日本だと計量社会学者を自称する人々しか使わなさそうな複雑なモデルを平気で使うところに北米の社会学における計量分析の浸透度合いを感じとることができる。

従属変数は3つあり、「社会的信頼の有無」(「人は信頼できるか?」に対する回答)、「市民団体参加の有無」(ボランティア団体、教会etc.)、「政治行動の有無」(請願活動、デモ etc.)ですべて2値で表現している。

モデルの基本的な数式は以下によって表すことができ、pがそれぞれの従属変数の確率、iがカントリーイヤー、jが各個人を指す。

loge[pij/(1-pij)]=B0+B1di+B2Xij+B3Xi+B4×外国人比率+B5Xi×外国人比率+εij+ζi
(p.331)

ベースラインモデル(上式の右辺第四項まで)として以下がまず提示される。

独立変数(レベル1/Xij):女性ダミー、既婚ダミー、年齢、教育年数、年収十分位、年収欠損ダミー、失業ダミー、非労働力ダミー、カトリックダミー、プロテスタントダミー、その他の宗教ダミー(ref.無宗教ダミー)
独立変数(レベル2/di):各国ダミー(ref.アメリカ)

その上で、ベースラインモデルのレベル2に様々なパターンのマクロレベル変数と、それらの交互作用を追加することで仮説を検証する。追加する変数は以下の通り。

独立変数(レベル2/Xi):GDP、外国人比率(モデル1)
独立変数(レベル2/Xi):GDP、外国人比率、Gini、外国人比率×Gini(モデル2)
独立変数(レベル2/Xi):GDP、外国人比率、多文化主義スコア、外国人比率×多文化主義スコア(モデル3)
独立変数(レベル2/Xi):GDP、外国人比率、Gini、多文化主義スコア、外国人比率×Gini、外国人比率×多文化主義スコア(モデル4)

多文化主義スコアはBantingとKymlickaが作成した三値のMulticultural Policy Index(MCP)を二値に変換している。この指標は私も使ったことがあるが、指標自体の問題とともに、著者らが同一国のすべての年で同じ値を投入していることに一定の問題があると思われる(現在のMCPは年代ごとに指標が作成されているが、KeslerとBloemraadが指標を使ったころには指標は1時点だったのかもしれない。いずれにせよ、各国に時間固定のスコアをわりふっただけではベースラインモデルの各国ダミーにMCPの違いがbetween country effectとして吸収されてしまい、時間変化(within country effect)をみることを主張している著者らの分析戦略に反してしまうと私は考える。この問題について後述する)。

分析結果として、モデル2とモデル4の外国人比率とGiniの交互作用がすべての従属変数に関して負に有意となり、経済的格差仮説は支持されている。多文化主義仮説1については支持されず、多文化主義仮説2は支持されている。また重要なファインディングスとして、どのモデルにおいても、外国人比率それ自体の主効果は社会的信頼に対して有意な効果はなく、あるのは市民団体参加と政治行動に対する正の効果のみである。よって、外国人の増大は社会的信頼を低減させるが、それはアメリカのような経済的格差が大きい国の状況で想定される話であって、経済的格差を縮小できれば外国人増大の効果自体は問題とならない可能性が示されている。

複雑で問題もあったが、面白い論文なので自分なりにまとめがいがあった。マルチカルチュラリズム支持者に都合のよい実証論文ともいえるかもしれない。

かなり専門的な話になってしまうが、この論文で一番気になったのは、内容というよりはマルチレベルロジットモデルの使い方だ。カントリーイヤーファイルをレベル2として指定し、ベースラインモデルでレベル2に各国のダミー変数を投入することで、時間不変のbetween countryの影響を除去し、within countryの影響だけをみていると主張している(p.331)。本当にそのようなロジックが成り立つのかに関して少し疑問もあり、さらに上述したように多文化主義政策指数をいれた意味をなくしてしまう恐れがあるが、非常に面白い方法だと思った。私は勉強不足もあり、このような方法を始めてみたのだが、もしこの方法が正しいとすれば、他の国際比較調査の分析にも応用できると思われる。

追記:このモデルはカントリーパネルに個人がネストしているデータと考えればよいと思った。パネルデータ分析の際のランダム効果モデルに全個人のidのダミー変数を投入したとすると固定効果モデルと同じ推定値が得られるはずなので、KeslerとBloemraadの「時間不変のbetween countryの影響を除去するためにダミー変数を投入する」という考え方は正しいと言えるのかもしれない。ただし、正しいが故に、時間不変の多文化主義政策指数をいれた意味はなくなってしまい、この論文の結果の解釈が困難となる。

2016年6月27日月曜日

W.BrueggemannのPraying the Psalms(2007)の感想

Brueggemann, W. (2007). Praying the Psalms: Engaging Scripture and the Life of the Spirit. Wipf and Stock Publishers.

米国の旧約聖書学者W.BrueggemannのPraying the Psalmsを読んだ。私が読んだのは英語版の第二版だが、最近『詩篇を祈る』というタイトルで日本キリスト教団出版局より邦訳も出たらしい。

学術書ではなく、一般信徒のために書かれている。一応、前書きでHermann Gunkel、Sigmund Mowinckelのような聖書学者の業績にも言及はされているが、それらはあくまで「前提」であり、考察の対象ではない。本書はより深い知識と情熱をもって一般の読者が詩篇にのぞむことを補助するためのみに執筆されている(pp.ix-x)。

冒頭で、詩篇とは神が私たちに呼びかける声というよりは、歴史的に蓄積し、現代にも権威をもつ「我々共通の人間性」(our own common humanity)の声であることが宣言される。

The Psalms, with a few exceptions, are not the voice of God addressing us. They are rather the voice of our own humanity–gathered over a long period of time, but a voice that continues to have amazing authenticity and contemporaneity. It speaks about life the way it really is, for in those deeply human dimensions the same issues and possibilities persist. (pp.1-2)

ブルッゲマンは詩篇の理解を深めるために人間の信仰生活の状況を以下の三つに分類する(p.2)。

(a)安定的に方向づけられている状態(being securely oriented)
(b)不安的で混乱している状態(being insecurely disoriented)
(c)驚いたことに再び方向づけられている状態(being surprisingly reoriented)

訳が下手で申し訳ないが、ブルッゲマンは(a)のような状態の時には偉大な祈りや賛美は生まれないと述べる。そして、詩篇のほとんどの箇所に(a)は登場しないとも述べている。詩篇と関連するのは(b)と(c)の状態である。(ちなみに、ブルッゲマンは(a)の代表例として箴言をあげている。)

本書では上記を前提に、詩篇の「言葉」の特殊性と「ユダヤ教」との関係から議論が進められていく。印象に残った点を3点記載しておく。

(1)詩篇の「言語」

ブルッゲマンにとって現代世界で用いられている言語には二つの種類がある。最初にあげられるのは「実証主義的な言語」(positivistic language)で、典型的には自然科学や社会科学で用いられる。実証主義的な言語は、現実を記述し、管理をすることができる言語である。もう一方の言語は「大胆で、象徴的な言語」(bold, symblic use of language)であり、典型的には創世記の神の天地創造の言葉として用いられている。この種の言語は、現状にはないものを創りだし、そのことによって希望を産む。詩篇に使われているのは後者の「大胆で、象徴的な言語」である。その上で、ブルッゲマンは詩篇を「実証主義的な言語」として捉える方向性に警鐘を鳴らしている。

私は「詩篇」を実証主義的に読むことを主張する方とは出会ったことはないのでブルッゲマンの強い危惧は共有できないが、広い意味での実証主義的な読み方は教会や個々人の生活に浸透しているのではないかもしれない、と思った。

(2)詩篇と「ユダヤ教」

ブルッゲマンは詩篇をユダヤ教やユダヤ教徒と強く関連づける祈り方をすすめている。ブルッゲマンが批判しているのは詩篇にある「呪い」や「復讐」のような一見「キリスト教」的ではないと思われる部分を軽視するような聖書の読み方である。

上記と関連して、ブルッゲマンは「詩篇」を「イエス・キリスト」を証する書とする読み方の行き過ぎにも警鐘をならす(ただし、完全に否定しているわけではない)。

Again, a long-standing practice (going back to very early Christian interpretation) is to treat the Psalms as claims about Jesus Christ... It is not easy to know how to assess such a practice... I suggest such “ spiritualizing” tends to tone the Psalms down and avoid the abrasive and offensive elements. On balance, I believe it more helpful to avoid such practice.We will be helped to a more genuine piety and an authentic faith if we engage the Psalms as poetry about our common, particular, humanness.(p.45)

このような主張は少し意外だった。ブルッゲマンにとっては詩篇はあくまで人間の、ありのままの姿での神への叫びであり、何らかの理論的なフレームワーク(例えば「キリスト論」)に当てはめようとすることで、詩篇の祈りのリアリティが失われてしまうということなのであろう。

(3)詩篇と「復讐」(Vengeance)

詩篇に登場する敵への復讐を切望する箇所をどう理解するかに関してブルッゲマンは一章を割いている。すでに述べてきたようにブルッゲマンにとって、復讐を切望するような詩篇の箇所は軽視・無視してよいものではなく、詩篇の一部として詩篇の他の箇所と同じような重要性をもっている。

ブルッゲマンによると、復讐は「我々共通の人間性」の一部であり、詩篇に入っていて当然のものである。ただ、ブルッゲマンが強調するのは詩篇(やその他の聖書)では復讐は神がなすことであることが明示されていること、復讐は神のあわれみ(Compassion)と同時に理解されねばならないこと、復讐とあわれみは神の正義の問題と関わること、復讐をめぐる問題はイエス・キリストを通して十字架上で解決されたこと、であった。

詩篇の「復讐」の箇所をめぐっては私もいろいろと考えたことがあるが、ブルッゲマンのように詩篇を徹底的に「我々共通の人間性」の叫びと考えるとわかりやすく受け入れられるように思われた。

本書で少し残念だったのはタイトルがPraying the Psalmsであるにもかかわらず、ブルッゲマンのPsalmについての本書での解説がいかにPrayingにつながるかがあまり議論されていなかったことだ。もちろん、Psalmのテクスト自体が「祈り」であるということなのであろうが、もう少しPrayingの意味を深めてくれたら親切であった気がした。

2016年6月23日木曜日

シティズンシップの変容:地位、権利、アイデンティティ(Joppke 2007)

Joppke, C. (2007). Transformation of citizenship: status, rights, identity. Citizenship studies, 11(1), 37-48.

Christian Joppke
(客員教授を勤めるCentral European UniversityのHPより)
政治社会学者クリスチャン・ヨプケのシティズンシップの変容に関するCitizenship studies上の論文。日本ではあまり知られていない人物であるが、移民とシティズンシップの関係の研究をする際にヨプケは欠かせない人物。学部はドイツのベルリン自由大学で、その後、フランクフルト大学でDiplom(修士号に類似?)を取得、博士からアメリカのUCバークレーに移っている。アメリカの南カリフォルニア大や、カナダのブリティシュ・コロンビア大で教鞭をとった後、現在スイスのベルン大学社会学部長。ヨプケのCitizenship and Immigration(2010)を邦訳した遠藤乾先生の記述によれば、フランクフルト大学ではあのユルゲン・ハーバーマスに師事していたらしい。UCバークレーのHPによると、1985年に提出された博論は原発反対運動の米独比較のよう。今では移民研究をしている。

以下、要約とコメント。なお、一部にかなり独自の解釈が含まれるため、気になる方は原文を参照されたし。

シティズンシップは大変混乱を呼ぶ概念であり、様々な意味で用いられている。(例えば日本語でもシティズンシップの訳語に「国籍」が当てられたり、「市民権」が当てられたり、「市民性」が当てられたり文脈によって定まっていない。)ヨプケにとって、有名なロジャース・ブルーベイカー(Rogers Brubaker)のシティズンシップ論やヤスミン・ソイサル(Yasemin Soysal)のシティズンシップ論が噛み合わないのは彼らがシティズンシツプの異なった側面を扱っている(ブルーベイカーは「国籍」、ソイサルは「権利」)ことに自覚的ではないからである。また女性のシティズンシップやゲイのシティズンシップなど、シティズンシップは様々な集団の権利主張に用いられる。こうした考え方は概念に関する混乱を大きなものにしている、とヨプケは考えている。

こうした概念の混乱の中で、ヨプケはシティズンシップをハイフン付きの状態(hyphenated citizenship)から、第一に国(state)と結びつられた「地位」(国籍)と解した上で、その「地位」に付随する「権利」と「アイデンティティ」を第二、第三の意味として追加するように訴える。つまり、ヨプケにとってシティズンシップは「地位」という側面をベースとして、「権利」側面と「アイデンティティ」側面を加えた三側面から定義されうるものなのである。

Against the proliferation of hyphenated citizenships, I suggest to fold citizenship back to what it essentially is: membership in a state, and to throw light from here on the rights and identities connected with it (p.38).

ヨプケによれば、このようなシティズンシップの捉え方は歴史上常に成り立ったというわけではない。例えば有名なシティズンシップの発展論を唱えたT.H.マーシャルの福祉国家黄金時代にはシティズンシップは「階級」との関連で捉えられる「機能的」なものであり、シティズンシップに領域的な限界があるということは意識されていなかった。しかし、現代においてはシティズンシップを「領域的」なものとして捉える方がよりより有効な視点となりうる。

In the golden age of nationally closed welfare states that antedated the contemporary era of globalization, citizenship was not visible as a nationally and territorially bounded construct. Tellingly, there is no reflection on citizenship’s bounded nature in T. H. Marshall’s (1992) universalistic story of evolving citizenship rights...This reveals that the central line of conflict in the golden age was functional, not territorial: how can workers be citizens? Today, in the era of globalization and blurring state boundaries, conflicts surrounding citizenship have taken on a different meaning, closer to the original meaning of citizenship as state membership: how can foreigners be citizens, and who are we, the Danes?(p.38)

その上で、ヨプケはシティズンシップの三則面における変化を追っている。この変化はシティズンシップの「地位」の変化⇨「権利」の変化⇨「アイデンティティ」の変化という順に因果的に描かれている。

地位(国籍):1980年代以降、多くの西洋諸国で国籍へのアクセスが易化した。こうした変化は帰化が国家の「自由裁量」によって「例外的に」付与されるものから、「ルール」に基づいた「手続き」と化したことや、移民2世や3世に対するシティズンシップの付与が出生に基づく権利とみなされるようになったことなどにあらわれている。アクセスの易化は、従来のジェンダーに基づく制限や、民族による制限を取り除き、国籍保有者を多様化させた。

権利:権利としてのシティズンシップは公民的権利(civil rights)、政治的権利(political rights)、社会的権利(social rights)に三分類されることが多い。ヨプケによると、近年は福祉国家の黄金時代を特徴するような社会的権利が後退し、逆に「差別禁止」や「マイノリティの権利」のような一種の公民的権利が伸長している。ヨプケの分析では、こうした変化は国籍へのアクセスの易化による国内の民族多様性の増大が部分的に影響している。

アイデンティティ:アイデンティティには国家によって宣伝されるものと、一般の人々によって実際に保持されているものとの二種類が存在するが、ヨプケは前者を中心に分析を進める。ヨプケによると、地位のリベラル化による民族的多様性の増大と、国内のマイノリティの権利の伸長によって、シティズンシップの「地位」と「アイデンティティ」が「分離」(decouple)した。国家はこのような多元社会を統合するための術を必要としている。

しかし、地位(国籍)へのアクセスが易化し、マイノリティの権利が伸長した現代において国家が特定の(特にナショナルやエスニックな)アイデンティティを強要することは容易ではない。そこで、各国家は社会統合のための「アイデンティティ」として、各国個別の文化をできるだけ排した上でも必要と考えられる「言語」と「普遍的な語彙(universalistic idiom)」(リベラルな民主主義を成り立たせる「自由」「平等」「寛容」etc.)に依拠するようになってきている(注1)。こうした「普遍的な語彙」は「差別」という批判に強い。

以上、要約。シティズンシップの各側面の変化を因果的に説明した上で、結論部分で厳密には「因果とも言えない」と言ってマイヤーのような制度論者の説明を補完的に持ち出してきているので、少し解りにくい気はした。また、ヨプケにはシティズンシップの「参加」という側面を説明していないという批判があるものの(Bloemraad 2015:601)、このように整理する試みはいずれにせよ大切で、非常に重要な試みであろう。

ちなみに、ヨプケは別の著書で、地位の側面でアクセスが易化し、権利の側面で社会的権利が後退し、アイデンティティの面で各国家に固有の文化の語彙が希薄化してリベラルな語彙で統一される兆候を「軽いシティズンシップ」(citizenship light)(Joppke 2010=2013)への変化として表現しており、また西洋諸国のシティズンシップはこのような「軽いシティズンシップ」へと不可逆的に収斂していると考えているようである。

こうしたシティズンシップの変化の現代日本へのインプリケーションについて、今後また書いてみたい。

(注1)こうしたシティズンシップのアイデンティティの側面の変化は帰化の際に求められる「帰化テスト」の内容のリベラルさにも現れているが、この論文では時期的に言及されていない。詳しくはJoppke(2010=2013)や、Joppke(2013)を参照。

参考文献
Bloemraad, I. (2015). Theorizing and Analyzing Citizenship in Multicultural Societies. The Sociological Quarterly, 56(4), 591-606.
Joppke, C. (2007). Transformation of citizenship: status, rights, identity. Citizenship studies, 11(1), 37-48.
Joppke, C. (2010). Citizenship and immigration. Cambridge: Polity Press. (=2013, 遠藤乾, 佐藤祟子, 井口保宏, 宮井健志訳『軽いシティズンシップ』岩波書店.)
Joppke, C. (2013). Through the European looking glass: citizenship tests in the USA, Australia, and Canada. Citizenship studies, 17(1), 1-15.

2016年6月21日火曜日

N.T.WrightのSimply Jesus(2011)の感想

英国国教会の元ダラム司教で、現在St.Andrews大学の新約聖書学教授N.T.ライトのSimply Jesus(2011)読了。かなり良い本だと思ったが、邦訳はされていない。N.T.ライトの本はSimply Christian(2006)に次いで二冊目で、両者とも印象は良かった。

英米圏では比較的昔から名が知れていた学者だったようだが、日本では2010年代からいわゆる「福音派」の神学関係者の間で注目を集め、翻訳・勉強会等が開催されているようである。New Perspectives on Paulというパウロ研究への新しいアプローチと関係があるようであるが、門外漢の私はよくわからない。

Simply Jesus(2011)は一世紀イスラエルの歴史的背景や、当時のユダヤ教の旧約聖書に対する主流派見解をしっかりと説明した上で、イエス像の再現を試みる「史的イエス」論。この手の本はリベラルなものから保守的なものまで数冊読んだが、イエス自身の「内面」に肉薄しようとしていることが本書の一つの特徴だと思われる。

ライトも認めているようにタイトルと違って内容は決してSimpleとは言えないが、一般読者向けに書かれた本としてはかなり詳細な歴史的コンテキストを踏まえており、とても楽しく読み進めることができた。(専門家向けの本は別にある)。イエスの前後の時代にイスラエルに現れた四人の指導者(ユダ・マカベウス、ヘロデ大王、バル・コクバ、シモン・バル・ギオラ)のイエスとの相違点や、イザヤ書・ダニエル書・ゼカリヤ書の重要な預言など、知識整理にも役立つ。

以下印象に残った論点とコメントを3点(1. イエスの「召命」と「神殿」理解、2. 「神の王国」と「地上の王国」、3. イスラエル人の政治・聖書に関する知識・理解)羅列する。

1. イエスの「召命」と「神殿」理解

ライトはSimply Jesus(2011)の少し前に出版されたSimply Christian(2006)で「保守派」から反発を受けそうな以下のような見解を示していた。

At this point, again, many Christians have taken a wrong turn. They have spoken of Jesus as being 'aware', during his lifetime, of his 'divinity', in some sense which made him instantly, almost casually, the possessor of such knowledge about himself as would have made events like his agony in the garden quite inexplicable.What I have argued elsewhere, not to diminish the full incarnation of Jesus but to explore its deepest dimension, is that Jesus was aware of a call, a vocation, to do and be what, according to the scriptures, only Israel's God gets to do and be (Wright 2006:p.101).

Simply Jesusでは上記のような表現は出てこないが、イエスの「神殿」理解に関するライトの記述はSimply Christianでの見解のマイルドな言い換えのように思われた。ライトはSimply Jesusでイエスの「召命」とイエスの「神殿」理解を密接に結びつけている。1世紀イスラエルにおいて「神殿」は「地上」と「天」(神)が出会う場所であり、イエスはこの「神殿」として自己を理解し、このことが「受肉」の教理そのものの中心的意味として捉えられている。

It [The temple] was the place where heaven and earth met... Jesus was, as it were, a walking Temple. A living, breathing place-where-Israel’s-God-was-living. As many people will see at once, this is the very heart of what later theologians would call the doctrine of the incarnation.But it looks quite different from how many people imagine that doctrine to work (Wright 2011: pp.130-131).

もちろん、ヨハネ福音書2章を筆頭に新約聖書ではイエスの「身体」を「神殿」と結びつける解釈が登場しているので、ここでのライトの解釈は伝統的なものであるとも言える。ただ上記引用でライト自身も指摘している通り、現代を生きる多くの一般信徒の「受肉」理解はこのようなものとは少し異なるように思われ、違和感を覚える人もいるかもしれない。

2. 「神の王国」と「地上の王国」

ライトは「神の王国」(「神の国」、「天の御国」、「天」と基本的には同じ意味)をこの地上の世界から離れた、死後に人間が行く遠くにあるもののように考えるクリスチャンを批判する。そのような考え方は1世紀のイスラエルには存在しなく、プラトン主義の影響を受けた思想だという。

Many have wrongly assumed that he[Jesus] was referring to a 'kingdom' in the sense of a place called 'heaven'-in other words, a heavenly realm to which a people might aspire to go once their time on 'earth' was over. That is simply not the phrase meant in the first century...Within Jesus' world, the word 'heaven' could be a reverent way of saying 'God' ; and in any case, part of the point of 'heaven' is that it wasn't detached, wasn't a long way off, but was always the place from which 'earth' was to be run(Wright 2011: pp.142-143).

ライトは「地上の王国」と対置する形で、イエスが地上で「神の王国」の開始を宣言したと考える。この王国は弟子達が期待したような暴力革命によるものではなかったが、実際に現存するものであり、イエスの「十字架」とともにすでに到来しており、一定の政治的な意味をもっている。にも関わらず、現代を生きるクリスチャンは「十字架」を抽象的に捉え、すでに到来している「神の王国」を自覚していないことをライトは批判している。一世紀の弟子たちがイエスに「地上の王国」(e.g.ローマ帝国)を倒すような「王国」を期待し「十字架」は期待しないという過ちを犯したのと正反対に、現代の多くのクリスチャンは「十字架」のみを期待し「王国」を期待しないという過ちを犯した。ライトにとって「十字架」と「王国」は切り離せないものなのだ。

The disciples wanted a kingdom without a cross. Many would-be ‘orthodox’ or ‘conservative’ Christians in our world have wanted a cross without a kingdom, an abstract ‘atonement’ that would have nothing to do with this world except to provide the means of escaping it (Wright 2011:p.169).

「神の王国」を証する役割が与えられているクリスチャンにとっての一番の政治的表現は「礼拝」である。そして、ライトによれば、「礼拝」は本来的にはどのような地上の政治組織(民主主義国家も含まれる)にも挑戦的であるはずのものだ。

Acclaiming Jesus as Lord plants a flag that supersedes the flags of the nations, however 'free' or 'democratic' they may be. It challenges both the tyrants who think they are, in effect, divine and the 'secular democracies' that have effectively become, if not divine, at least ecclesial, that is communities that are trying to do and be what the church was supposed to do and be, without resource to the one who sustains the church's life.Worship creates-or should create, if is is allowed to be truly itself- a community that marches to a different beat, that keeps in step with a different lord(Wright 2011:p.215).

このような見解は保守的なキリスト教の文脈では珍しいものではないかもしれないが、ライトが特定の国家(大英帝国)と密接な関係を保ってきた英国国教会のナンバー4であるダラム司教を7年間つとめた人物であること、ダラム司教はThe Lord Spirituralとして英国議会の貴族院の議員に任命されることを考えると示唆に富んでいる。

3. イスラエル人の政治・聖書に関する知識・理解

ライトに限った話ではないが、聖書学者が、「当時のイスラエルの人々が共有していた物語(世界観)は〇〇である」という主張に基づいて何かを論ずる場合に気になるのが、実際にその物語が社会にどの程度浸透していたかという問題だ。

私が社会意識調査のデータ分析をしているから思うことなのしれないが、特定社会で共有されている価値や知識等にもほとんどの場合一定の分散(意見の散らばり)が存在しており、その分散は社会的属性(e.g.ジェンダー、職業)やその他の要因(e.g.居住地域)に大きな影響を受ける。多くの聖書学者は当時のイスラエルの民のほとんどが旧約聖書やその解釈に精通しているように描いているが、どこまでそのような古代イスラエル像は正しいのだろうか。

もちろん、イエスやイエスを批判した宗教熱心な者たちが特定の物語の中に生きていることは簡単に想像できる。だが、例えばイエスが語りかけた貧しい群衆はどうだったのであろうか。彼らはそもそも彼らの置かれている政治的状況(ローマ帝国)を正しく把握したり、旧約聖書の特定の箇所を心に刻み、それに基づく預言の成就を待ち望んだりしていたのであろうか。このような批判は資料が少なすぎて検証する方法はないし、あまり生産的ではないことは理解しつつ、時折感じてしまうことである。もちろん、この本の主旨には大きな影響は与えていない。

コメントは以上。大変有益な本であったので、英語がOKな方は是非手に取ることをお勧めしたい。

引用文献
Wright, N. T. (2006). Simply Christian: Why Christianity Makes Sense. SPCK.
Wright, N. T. (2011). Simply Jesus: Why he was, what he did, why it matters. SPCK.

2016年6月19日日曜日

統計ソフトLEMのダウンロード

フリー統計ソフトLEMはJeroen K. Vermunt というオランダの大学の研究者が開発しているらしい。LEMはLog-linear and event history analysis with missing data using the EM algorithmsの略称だと思われる。オランダの社会学はよく理由はわからないが計量分析が異常に発展していると思う(たぶんアメリカと同レベル)。

LEMはログリニア分析、潜在クラス分析等のカテゴリカルなデータを扱うのに適したソフト。おそらくかなりマイナーで、日本ではごく一部の社会学者・政治学者のみにしか使われていない印象がある。

ダウンロードはJeroen K. Vermunt 先生のホームページからできる。Macではしらせようとしたが、Wineのようなアプリケーションをダウンロードしないとダメなようで、ハードディスクの容量の関係からまだ試せていない。Windowsだと簡単にはしった。とりあえずログリニアモデルとロジットモデルは自分ではしらせてみたが、意外と簡単。今週中に潜在クラス分析も試してみる。